天之御中主神社(妙見神社)は藩政時代には妙見廟として、薩摩の名社として伝えられおよそ八百年の昔(土御門天皇の御代)、正治年間(鎌倉時代の初期)薩摩の人々を苦しみより助け、福寿増益を計る為に紀州那智山よりお迎えしております。三国名勝図会巻十九等によれば妙見廊、地頭館より子の方一里許、宇宿村にあり例祭一歳六度、其の中十一月二十六日を正祭とす。紀州那智山より護下り今の地に鎮座す、恕翁公(第七代島津元久)の命によりて、応永年中、福昌寺より祭田寄附(神領九石)あり、今に其の祭田を以って祭供を奉るとなり、當廟は霊験特に明らかなりとて、都鄙の人常に信詣す、とあります。当社においては島津初代忠久公の薩摩入国の時、鎌倉から背負って奉齊したという記録と、同じく初代島津薩摩入国の時、和歌山県紀州那智山から護下って鎮座したとの記録がありますが、古い文献等を照らし合わせてみると、おそらく紀州那智山からの勧請ではないかと思われます。薩摩国宇宿村で鎮座されたのが、およそ八百年前、その後、島津七代元久の時、応永年間(1394〜1427)大体今から六百年前、元久公の命により祭田(神領九石分)を寄附(現在は残っていない)されたようであります。また、当社は非常に御霊験あらたで当時宇宿村は郊外だったにもかかわらず、都市部の人達の祈願や参拝が絶えなかったようであります。